hpgrp GALLERY TOKYO

ARTIST

Yoshiro Takeuchi

竹内義郎

1960 秋田県生まれ

1984 武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業



個展

2015 hpgrp GALLERY TOKYO (東京)

2015 なびす画廊 (東京)

2012 hpgrp GALLERY TOKYO (東京)

2011 なびす画廊 (東京)

2010 hpgrp GALLERY TOKYO (東京)

2009 ギャラリー惺 (東京)

2007 なびす画廊 (東京)

2004 なびす画廊 (東京)

2002 なびす画廊 (東京)

2000 ギャラリー・アート・ポイント (東京)

1999 なびす画廊 (東京)

1996 なびす画廊 (東京)

1993 なびす画廊 NICF YOKOHAMA '93 (横浜)

1993 「新世代への視点・10画廊からの発言」なびす画廊 (東京)

1992 なびす画廊 (東京)

1989 かねこあーと G1 (東京)

1987 ギャラリー葉 (東京)

1985 ギャラリー葉 (東京)



グループ展

2014 「春のおくりもの」/ なびす画廊(東京)

1985 大邱アートフェア2014 / hpgrp GALLERY TOKYO (大邱)

1985 シンガポールアートフェア / hpgrp GALLERY TOKYO (シンガポール)

2012 GALLERIST MEETING X SOMEWHERE 『非日常のライフスタイル』ヒカリエ(東京)

2011 マンシーズアートナイト/ hpgrp GALLERY TOKYO(東京)

2010 「無題-絵画-」 / hpgrp GALLERY TOKYO(東京)

2010 「FLOWERS~To the way of the wildflower」/ ギャラリー惺(東京)

2010 アジアトップギャラリーホテルアートフェア/ hpgrp GALLERY TOKYO (香港) 

2010 アートフェア京都  /  ホテルモントレ京都 / hpgrp GALLERY TOKYO

2009 DE MYSTICA 第2回展 -"アート"全盛期における"美術"-/ なびす画廊(東京)

2008 DE MYSTICA -召命- ギャラリーアート・ポイント(東京)

2007 ヘイリ・アジア・プロジェクト2 日本現代芸術祭 / ヘイリアートヴァレー(坡州市、韓国)

2000 春のおくりもの / なびす画廊(東京)

1995 VOCA展 95/ 上野の森美術館(東京)

1995 第30回今日の作家展「洋上の宇宙」横浜市民ギャラリー (横浜)

1995 絵画考「器と物差し」 水戸芸術館現代美術センター (茨城)

1994 第8回インドトリエンナーレ (ニューデリー ・インド)

1993 なんなら反ロダン主義 / ギャラリー16 (京都)



絵画を見るとき、人は何を見ているのでしょうか。そこに描かれるイメージを、例えば「人」や「花」と認識し、その後はストーリーを想像するか、自分の記憶の中の何かと結びつけるか…。作品という形で提示された「答え」に至るプロセスを探り、「作品=答え」が最終着地点ということに安心感や納得を求めているかのようです。

竹内の描くイメージは、何かの形状、文様、記号などを微かに連想させますが、いくら見てもやはりそのイメージ以外の何ものでもありません。丁寧に描かれた作品は、そのシンメトリーな正面性からとても寡黙な印象を持ち、「鏡を見るように」ただただ目の前に物質として存在するものを見つめることだけを要求してきます。このときイメージは思考の最終着地点ではなく、見る者がその作品を通じて「至るべき地点」へ向かう為の出発点、もしくは問いかけとして存在します。安易な根拠設定を拒み、見る者と作品という関係性以外存在していないという姿勢こそ、饒舌で刹那的なイメージが溢れる今日に絵画が示せる可能性なのかも知れません。

アーティストステートメント

「想像すること」は「像」を想うこと。これは一種の焦がれである。

焦がれの対象としての「像」は形象の果てに、決して抽象的なものとしてではなく、具体性を伴った絵画としての姿を現わす。絵画そのものが焦がれの「写し」となるのである。これは少なくともイメージと称して何かを物語ったり、感情や情緒のみを喚起させたりする方向とは相容れない事柄である。そのような絵画に出会うこと、「出現」に立ち会うこと。それは描き手と鑑賞者が、眼差しのうちに絵画という物資を仲立ちとして静かに共有すべき稀有な出来事であるはずだ。

だが、ひとつの絵画が孕む何ものか、言い換えれば「不可視性」を設定することには常に危うさが付きまとう。焦がれるものを表現してもそれはいわゆる「見かけ」であり、あくまでも畢竟(ひっきょう)ただの物質ではないか、偶像ではないかと。眼に見えないものを「そこに在る」「ここに居る」と言っても、人は「見かけ」のうちの本能的に「空虚」を感じ取ってしまう。どんなに焦がれたとしても、絵画が物質である限り、イメージ自体は常に「空虚」という危うさから逃れることが出来ない。

物質の「出現(アピアランス)」としての絵画。それは不可視である何ものかの「見かけ(アピアランス)」として存在する。「見かけ」の空虚さは出現すべき「不可視性」との距離である。かつて絵画において、物質と不可視性は相矛盾しながらも実は一体であったのではなかっただろうか。おそらくそれは絵画の幸福であり、美と呼ばれるべきものなのではなかったか。



1

15-35「見つめることと待つこと」

2015, キャンバスに油彩, 910x725 mm

2

15-04「〈視〉の翼」

2015, キャンバスに油彩, 1460x1120 mm

3

15-04「〈視〉の翼」

2015, キャンバスに油彩, 410x318 mm

4

15-32「Veronica (ヴェロニカ)」

2015, キャンバスに油彩, 610x500 mm